幼少の頃〜おもちゃのピアノ
遊びに出ると上の兄2人よりも、服を汚して家に帰ってくるような、とにかく動くの大好きな活発な女の子でした。
昭和の時代のおもちゃのピアノを買ってもらい、「ねこふんじゃった」など、我流で楽しそうに触ってたようです。
小学生〜本物が欲しい!
小1のときに「おもちゃのピアノじゃなく、ホンモノを買ってほしい!」と親にせがんで(私の記憶は全くありません、、、)楽器を買ってもらうことになりました。
見た目のカッコよさ(!!!)とウキウキするようなリズムボックスの音に惹かれてエレクトーンを買ってもらいました。
近所のお姉さんが習ってたピアノ教室に「エレクトーンレッスン」の看板があるのを自分でみつけて、小2からレッスンに通い始めました。
高学年になると、同じようにピアノやエレクトーンを習ってる子もクラスにたくさんいました。
その子たちとお楽しみ会などではチームを組み、わざわざ音楽室までクラス全員移動してもらって、お芝居を生演奏入りでお披露目したりしてました。このことが今のセレモニー演奏のお仕事のルーツにもなっています。
漫画やイラストを描くのがすきな友達もいて、その影響でたくさん漫画やイラストを描いたり、交換して見せ合いっこしていました。
中学生〜演劇部
演劇部に入部し、年に一度の文化祭の舞台発表に燃えていました。
最後の文化祭では、劇中の歌の伴奏をエレクトーンからテープに録音して使いました。
楽しかった思い出です。
なんでもそつなくこなすタイプの子どもでしたが、集団生活が苦手で、様々な友達に、それぞれの価値観でいろいろなことをいわれるのが、この頃とても苦しかったです。
それまでついていたエレクトーンの先生がご結婚で退職され、中学2年生で新しい先生にかわりました。
高校生はクラブ漬け、補欠のレシーバー
高校生ではバレーボール部に入部、身長が低く「補欠のレシーバー」。
クラブでは先輩後輩の上下関係あり、練習も厳しめだったので、ある程度の根性や礼儀はこの時に身についた(?)気がします。中学からバレー部だった子との差をひしひしと感じたり、友達との関わりに悩み、自己肯定感を持てず3年間を過ごしました。今、思い出しても、この頃のイメージは「暗闇」
今、思うと思春期真っ只中だったのでしょうか。それでもそれなりにクラブも友人関係もその年齢なりに楽しめてた面もありました。
普通科でしたが
芸術選択科目は、第一希望の音楽ははずれてしまい、美術のクラスになりました。
上には上がある
高校卒業後は①デザイン系②音楽系のどちらか、と思い、デザイン系短大に進みました。
周りの人たちがすごいセンスの持ち主ばかりの環境で、今なら「こんな素晴らしい環境で学べたことが、ありがたい!」となるのですが、、当時はやはり他人と自分を比べては自己肯定感がだだ下がり、だった時代でした。
学校が遠方なこともあり大学生の1年半ほどはレッスンをやめていました。短大卒業後の進路に迷い、スーツを着て就職活動をしながらも、なにかしておかないと、という焦りを感じ、卒業間近にレッスンを再開しました。
社会人 独身
デザイン系の短大卒業後、音楽講師を目指してた友達にさそわれて楽器店の受付のアルバイトをし、そののちエレクトーンハウスインストラクターを2年間させていただいておりました。様々な生徒さんとのご縁や出会いを経験して、人のお役に立てる喜びを感じたり、「私はこういう人間なんだ」と探していたものがやっと見つかったような、すがすがしい感覚を思ったのが、このころでした。
8回目のチャレンジ・・・
その時に出会った、とあるエレクトーン講師の方がピアノも素敵に弾きこなす姿を見て、私もピアノ、エレクトーン、両方弾けるようになりたい!と強く思ったのでした。
それでもプロになることは、そう簡単にはいきません。
ピアノもエレクトーンもグレードは、受けまくり落ちまくりの繰り返し、、、さすがの私も7回も不合格通知がくると、もう駄目なんじゃないか・・・??と思いはじめてました。
それでも8回目にチャレンジし、やっと合格!!!!!!!!(涙)
最初のチャレンジから(1年半のブランクはありましたが)気がつけば4年が経っていました。
継続は力なり!
そして、楽器店の個人レッスン講師として採用していただき、稼働をはじめました。
その後、個人経営の教室からもいろいろなところからお声掛けいただきあらゆるお教室で、レッスンさせて頂くようになりました。現在も活動中です。
わたる世間・・・コスプレ
発表会では、レッスンの成果のお披露目はもちろんのこと、楽しむことをコンセプトに行っております。
この頃より、ダンスを取り入れたり、「渡る世間は鬼ばかり」の『幸楽』というお店(わかりますか、、、?)をイメージして、割ぽう着&三角巾&白長靴でピアノ・エレクトーンのアンサンブル演奏(!)したことも。
舞台には、演出も大切!!
生徒さんにも私にも一生心に残る発表会になりました。
衣装は強要するわけではありません☆でも、みなさんこちらも楽しんでくれているようです。
家族
現在主人と娘・息子(大学生・高校生)の4人家族です。
子育て37歳で娘を、40歳で息子を出産。
実家の近くに住んでおり、子どもが小さい頃は私の母に子ども預けて、バタバタと仕事をしていました。
子育て
娘は・・・
娘は幼い頃からしっかり者で、弟の面倒をよく見てくれ、真面目で何事も一生懸命取り組むことができる子でした。
働く母には本当に申し分ない子です。
中学生になると、小学生の頃からの夢だった、スイミングの選手コースへ上がることができ、大喜びでした。
しかし喜んだのもつかの間、厳しい練習と、中学校という慣れない環境への変化が重なり、頻繫に体調を崩すようになりました。
真面目できちんとした性格が仇となってしまったのです。
「ああしなければいけない、こうしなければいけない」とがんじがらめにして、自分で自分の首をしめてしまっているようでした。
中学は、なんとか毎日登校していました
が、授業の途中に保健室でお世話になったり、不調で早退してきたりしていました。
そして誰もがどこかのタイミングでやってくる「受験」。
娘にとっても、私にとっても初めての親子での受験という経験。
娘は、希望する高校を決めて、そこから一切希望校をかえませんでした。
一途なことは、決して悪いことではないと思うのですが、勉強を頑張っていても、引き続き、体調を崩し続ける娘を見てて、その高校にいくことが、娘にとっていいことなのかどうか、私が疑問に思えてきたのです。
でも、最終的には本人がきめること、(私なりに思うことだけは話しましたが)決してああしなさい、こうしなさい、という事は言いませんでした。
そして、受験のためスイミングをやめてからも、体調がもどることはありませんでした。
娘のかかりつけの病院の先生に行ったとき、先生が「ここではなく、カウンセリングにいったほうがいい」とおっしゃって、カウンセリングの先生を紹介してくださいました。
そしてそこでお話を聞いていただいたりしました。
だから・・・気づき
すべりどめで受けた高校の合格通知が来たあと、娘はこだわっていた公立の希望校から、突然、違う高校に出願する、と自分の口からいいだしました。
私は内心、面喰ってしまいました、、、ふつうは、すべり止めの高校が合格できたなら、はじめの希望校を推し通すところだと思うのですが、、、、学校見学会などに行き意志が変わったと。
それも本人から言い出したことでした。
私は、なにかしっくりこないもやもやした気持ちをグッとこらえて(ほんとにほんとにこらえました!!!)娘の思うように、と見守ることにしました。
そして、合格発表の日、娘と2人で受験番号があるのを見つけることができました!!
あとで娘に入学した学校のどんなところがよかったか聞いてみると、この学校の在校生の雰囲気がよかった、とのこと。
私も常日頃、最後には人との出会いや、ご縁の大切さを感じておりますので、そういう視点で娘が自分の学校を選んだことにとても共感できました。
私も日々あわただしくしてましたので、仕事を調整して娘と一緒に病院やカウンセリングなど通ったこと、夜遅くまで受験勉強の問題集を一緒に考えたりした日々、幼い頃からずっと、実家の母に預けて、キチンと娘と向き合う時間がなかった私に神様が娘との時間をプレゼントしてくれたのでは・・・?とすら 今では思ったりしてます。
ママ友からピアノ教えて!
子どもが幼稚園、保育園に通うまえの時期、公園のママ友ができました。
お互いにあれやこれやと子育ての情報交換をしながら、楽しく過ごさせてもらいました。
そのうち、私がピアノ講師しているという話になり、「うちの子にも教えてほしい」というお言葉をいただき、今現在の「こんどう教室」のきっかけになりました。
嬉しかったこと
新規の生徒さんはもちろんのこと、さまざまな事情でほかの先生から移ってこられた生徒さんもよく受け持たせていただきます。
その中の一人、Kちゃんは4年生の時に私のもとへ移ってこられました。
おかあさん曰く「発表会に出てほしいのですが、本人が過去の発表会でよい演奏ができなかったことがトラウマになってて、どうしても出てくれないのです、、」とのこと。
レッスンしていくうちに、Kちゃんは、すごく素直で純粋な子だとわかってきました。
素直なだけに、うまくいかなかったときのショックと落ち込みが大きかったんだと思います。
よく話を聞くと、本人も発表会は出たい気持ちもあるけど、トラウマが引っかかってて、積極的になれない、という様子だったのです。
いろいろ考えて、おかあさんといっしょにサポートしていき、半ば強引さもあったかも?しれませんが、次の年の発表会にKちゃんの姿がありました。
そしてしっかりと演奏してくれました!
少々のミスはあったと思いますが、演奏後のKちゃんの表情は充実感があふれていました。
おかあさんは「先生のところにこさせてもらって、この子は発表会に出ることができるようになりました!」と嬉しいお言葉をいただきました。
でも、本当は特別なことは何もしてなく、、Kちゃんの成長過程にたまたまうまくより添えた、というかんじなのですが、、、それでもそんな風に言っていただけて、嬉しかったです。
※現在Kちゃんは、小学生のころからずっと目標にしていた、保育士さんになって、
たくましく、忙しく、子どもたちとふれあう毎日を送っています。
ピアノ教室・・・第二の母
このお仕事をさせていただき30年、生徒さんの成長がみられたり、音楽を楽しんでもらえてる時間をとても嬉しく思います。
たとえ教室を卒業したとしても、その子の人生をずっと応援していくような
生徒さんにとって、私は、第二の母のような存在になれたら、と思います。